大竹与茂七史跡(新潟県)
義人にして新潟県最大の怨霊、大竹与茂七にまつわる史跡です。
【大竹与茂七】
中之島の名主であった大竹与茂七は、18世紀はじめ、大洪水の時、自分の山の木を切り出し、堤防の補強を行い、足りない分を、藩の所有林や大庄屋の山の木を切って補った。
無断で自分の山の木を切られた大庄屋は与茂七が藩有林を無断で伐採したことを役人に訴えた。しかし、この件に関しては、危機の時ということで無罪となった。この件で大庄屋は与茂七に恨みをいだく。
翌年から中之島は連続の大凶作に襲われた。与茂七は村人のために、大庄屋から大金を借り入れ、村人の救済に当てた。幸い次の年には借金を返せたのだが、その時、証文をとってなかった。、翌年に大庄屋から借金を返せと迫られた与茂七は証文が手元にないことからどうすることもできず、新発田の奉行所に訴えられる。
奉行所の役人は、大庄屋に買収されており、与茂七は斬首の極刑と言い渡される。
白州に引き出された与茂七は、「末代まで祟る」と言い残し新発田郊外の刑場で打ち首となった。(これが念仏塚があるあたりとされる)このとき刑場に連れて行かれる与茂七を人々はなみだ橋で涙を流しながら見送ったという。
その後、大庄屋はこの事件にかかわった役人が次々と狂死。さらには新発田城下の大半が燃える大火があり、人々をこれを与茂七の祟り「与茂七火事」だと恐れ、それ以来新発田で大火事があると与茂七の祟りであると恐れたという。